「スピ好き高学歴ダメ人間」が精神障害者を止めて前向きに生きる話

人生終盤ですが、希望を持って進んでいきます♪

5次元対称性とは?

(つづき)

え~、ここから先は未消化のまま、本から引用させて頂きます。サーセン

 

無限遠点とは、観察主体である<わたし>自身の位置のことである―わたしにとって、この発見はとてつもなく大きいものだった。なぜならば、この考え方によって、今までどうしてもイメージすることのできなかった反転した3次元空間の描像というのが、一気に感覚化できるようになってきたからだ」

 

もうね、「無限遠点」「反転」というワードで、頭から「ぷしゅ~っ」と空気が抜けてしまいますです。

数学科出身でも、大学の授業もやっとこさ単位を取っただけで全く身にならなかったし、幾何も苦手だし、物理的な思考も不得意なのでお手上げです。

 

「今まで客観的な外部空間の中で捕えようとしていた無限小と無限大という対峙関係が、何と客体と主体の位置関係が作る空間の描像に完全に取って代わってしまうのだ。こうなってしまうと、それまでわたしたちが外宇宙としてイメージしていた無限の広がりを持つ3次元空間など、もはやどこかへ消え去ってしまう。人間の外面においては、宇宙はわたしと対象との間にしか存在しておらず、それまで自分を取り囲んでいた広大な宇宙空間というイメージは、人間の内面にある意識が作り出した幻影世界にすぎないものとして感じられてくるのだ」

 

「4次元対称性が、一つの対象とそれを見ている観察者の意識の位置との間に生まれている空間に存在するということにさえ気づけば、5次元対称性の発見はそれほど困難な作業ではない」

 

「5次元対称性とは、3次元空間の中で移動する<わたし>の位置のすべてと、その移動によって認識される対象の質点のすべてを結ぶ空間に存在する」

「すべての存在物は、<見ているわたし>と、その<わたし>と鏡像のような関係にある<見られている対象>の間にしか存在しなくなる」

「世界はどう見ても<わたし>の位置と対象の位置に挟まれたサンドウィッチのようにしか見えていないので、思惟する自分の本性がここにも、あそこにも、空間のあらゆる場所に存在しているような気がしてくるのだ」

 

もうちょっとわかりやすい記述があります。

 

「わたしは生まれてこのかた色々なものを見てきた。この視覚的な記憶はわたし固有のものであり、決して他者と共有することはできない。たとえ、他者と同じ出来事を目撃したかのように思えても、脳裏に蘇るそれぞれの映像は、必ず見た角度が異なっているために、決して同一のものとはなり得てないはずだ・・・。ということは、見ている側だけでなく、見られている側、つまり、対象側にも<わたし>というアイデンティティーが存在していなければおかしい」

「<わたし>とは、対象の位置とそれを見つめている身体との位置を結ぶ空間の中に存在する・・・。これは、まさに幽体離脱とも言っていい感覚だった。この感覚がもっと研ぎ澄まされてくると、従来は場所を表す概念として用いていた<あそこ>や<向こう>などという言葉が、過去や未来という時間を表す概念と同一のものとして感じられてくるから不思議だ」

 

「遍在するわたし」・・・「ワンネス体験」っぽいですかね。

 

「世界の全存在物と<わたし>を鏡の関係として捕らえ、時空間に遍在する自己を感じ出すと、当然のことながら他者に対する感覚も今までとは大きく変わっていく」

「意識自体は自己と他者を区別しない空間領域を厳然として持っているのだ。そして、その領域に存在する意識はわたしたちの潜在意識下では確実に働いており、それが、言わばわたしたちが集合意識と呼んでいるものなのだろう。この空間領域は、おそらくわたしたちの意識の中では倫理や良心、そして愛の源泉として機能しているに違いない。オコツトがいう意識進化の方向性とは、他者をも自分自身と同一のものとみなす意識の方向性のことなのである」

 

オコツトは言います。

「たとえば一つの対象を複数の人間が取り巻いている状態を想像されるとよいでしょう。現在のあなたがたの意識では対象が一つで、それを見ている主体が多数いるとしか見えないはずです。しかし、位置の変換が起こり始めると進化の方向性が顕在化するために、それらの関係性が反転した空間も見えてきます。つまり対象が一つならば、主体も一つのものとして感覚化されなければいけないと感じてくるのです。この感覚によって人間の内面性に見出されていた個我の位置、つまり身体の位置はほとんど意味を失い、自我は自然消滅していきます」

(つづく)